私自身は、「読書」といわゆる「出路」は因果関係ではないと考えています。
この偽命題の答えを知るためには、まず読書と出路の意味がそれぞれ何であるかを理解する必要があります。
まず「読書」について。読書は一般的に「功利的な読書」と「興味に基づく読書」に分けられます。前者は問題が述べる「出路」に近く、後者は「マズローの欲求理論」が述べる「人のより高次の欲求」に近いです。
学校で教えられる知識やスキル、社会科学系の財務書などは、すべて「功利的な読書」です。一方、文学や歴史、哲学などの書籍は、一般的に「興味に基づく読書」です。
前者は名声や利益を追求し、後者は個人の精神的な高揚をもたらします。用途が異なるため、因が異なれば果も異なります。
次に「出路」について。学び、商売をし、政治に関わるなどの行動は、世間一般が考える「出路」です。目的は人の社会的地位を向上させ、普遍的な価値観に基づく「社会的承認」を追求することです。
「出路」と「読書」は因果関係ではなく、つまり何かを先に行ったからといって、何かが起こるわけではありません。単にいくつかの本を読んだからといって、いわゆる出路に達することはできません。いわゆる出路に達するためには、読書は一つの側面であり、選択がより重要です。選択、機会、学歴、家庭の背景、個人の経験、成長の速度、悟性、社会的な人脈、思想の深さ、認識の高さなどが関わります。これらの要素が組み合わさって初めて「果」が得られる可能性がありますが、すべてが満たされても、必ずしも望む果が得られるわけではありません。
社会の厳しさを経験した後、多くの人は「瓜を植えれば豆が得られ、豆を植えれば瓜が得られる」ということを理解するようになります。努力すれば必ず結果が得られるわけではなく、問題が述べるように「読書」をすることで出路が得られるわけでもありません。
私は、思想が行動に優先すると考えています。思想が明確であれば、正しい判断ができ、正しい判断があれば、正しい選択ができる可能性があります。
功利的に読書と出路を結びつけるべきではありません。それは「ただ読書をすること、読書に死ぬこと」と同じです。
読書の最も重要な意味は、「法則」を理解し、把握することです。これらの法則は人の意志に左右されるものではなく、早く理解し、より多くの法則を把握するほど、「通透」して生きる可能性が高まります。通透した後、改めて自分が今求めている出路が本当に「出路」なのかを見直すことができます。